富士千代ちゃん伝説 Page1  written by ひろびろさん  

〜 伝説が書かれた日  2004年8月 〜

《《 富士との出会い 》》
12年前の夏、私は富士千代に出会った。

12年前の夏、私がたまプラーザ近辺でお中元の配達のアルバイトをしている時に立ち寄った一軒のお屋敷の庭に富士千代がいた。
そのお屋敷は大きな一軒家で、毎日 10個ほど荷物が届く。私は毎日そうめんやビールの詰め合わせなどをかかえて、その屋敷に配達し続けたため、屋敷の奥方と顔見知りになり世間話をするまでになった。
ある日、いつものようにお中元をかかえてそのお屋敷に行くと、印鑑を持った奥方が庭を指さしてこう言った。「うちの庭にノラ猫ちゃんが住みついて子猫を 5匹も産んだのよ。誰かもらってくれる人いないかしら」

見ると、母猫の近くに、ねずみかと思うほど小さな子猫が 5匹、奥方にもらったツナ缶にかじりついていた。その中で一番弱々しく、他の兄弟に遅れをとってツナ缶にありつけない子猫がいた。それが富士千代だ。
「あっ、このこ、一番先に死んじゃうかも。里親を探してあげなくっちゃ!」
当時 19歳だった私は、なにも考えずにその子を抱いて家に帰った。

もちろん、里親は簡単にはみつからない。
一度家につれて帰れば情がうつってしまう。
自動的に富士千代は我が家の家族になってしまったのだ。

旅行から帰ってきた両親はあぜんとしていた。
たった1泊の旅行に行って、家に帰ったらいきなり猫がいたのだ。
1晩猫と過ごした私は、もうすっかり情が移っていた。段ボールで簡易トイレをつくり、そこに「富士千代」と名前まで書いていた。

母 「なに?なになに、どうしたのこの猫!?」
ひ 「え?ねこねこ。ちょっと拾ってきたの。里親さがそうと思って」
母 「猫はわかるわよ。名前までついてるじゃない。なに富士千代って?」
ひ 「え?あ、これね、千代の富士を逆さにしてみたの。」
母 「・・・・・・・。だから、里親探すのに、なんで名前つけてんのよっ!」

初日は「あきれた」だの「いいかげんにしなさい」だの連発していた母であったが、 3日もすると猫缶を買ってきて「富士ちゃ〜ん、ごはんよ〜」になった。

《《 体が大きく、少し遅れて心も大きく 》》
富士は男の子で、全身が白くしっぽと耳だけが焦げ茶色だった。最初は 500グラムしかなかったし、見た目もネズミのようだった。
うすいブルーの眼は細く、なんとも頼りない顔をしていたので、このままひょろひょろとヘナヘナな猫に育っていくのだろう・・・と家族みんなが思っていたが、富士はそんな家族の心配を吹き飛ばすかのように、素晴らしい猫に成長していった。

成猫になった富士は、やたらでかかった。
手足も長く、頭蓋骨もでかく、私が今まで見たことないようなサイズに育っていったのだ。「確か母猫は、黒くてシャープな普通サイズの猫だったような・・・?」と、思ったが、ノラ猫にどんな血が混じっていてもおかしくない。
おまけに毛の色も変わっていった。赤ちゃん時代の白いふわふわな猫とはまったく違って、背中全体が焦げ茶色で短毛(のちにラグドールの血混入疑惑浮上)。体重 8キロ。病院に連れていったときなど、そのあまりの大きさに、待合室のおばさんに「まっ!たぬきちゃん?」と言われたほど。

うすいブルーの瞳に低い声。なんとも言えない気品と貫禄。
しかし、富士の素晴らしさはなんと言ってもその性格だ
子供の頃こそびびり猫だった富士だが、年を追うにつれ、すべてを受け入れる仏様のような猫に成長していった。(オオゲサか?)

富士は 3歳頃までは玄関のチャイムがなると、床を這うように低い姿勢で、しかも残像が残るほどの速度でささささささとカーテンの向こうにかくれるような猫だった。
が、ある日逃げ遅れたのかボーっとしてたのか、宅急便のおじさんが玄関に入ってもまだ廊下にお行儀をしていた。
あせって固まりつつも、ぴんと背筋をのばして荷物の受け渡しを見つめる猫を見て、おじさんは「まーっ!立派な猫ですねーっ!いい猫ですねーっ!!」とベタ誉め。

富士にはその言葉がわかったのだろうか。それ以来、お客様が来るたびに母の後ろでお行儀をし、お誉めの言葉を待った。誉められると、また少し玄関に近づいてお行儀。また誉められて、今度はお客様の正面を向いてお行儀。
そして気がついた時には、富士は誰のことも受け入れる猫になっていた。

《《 富士、おじさんになる 》》
富士に 5年遅れてメスの三毛猫(名前を桜華と言います)がやってきたとき、富士は快く受け入れた。桜華が「ネイ〜ン、ニュイ〜ン」とつっかかってきても、富士はただ一言「ナー」と低い声で諭すだけ。桜華にポカッと頭を殴られても、めったにやりかえすことはなかった。ご飯は常に桜華が先。レディーファーストを徹底しており、猫缶のゼリー部分を全部食べられてしまっても、だまって残った物を食べていた。そんな理不尽な食生活を強いられていたにもかかわらず、桜華がベランダでカラスに襲われたときは、一目散にかけつけてカラスと戦い桜華を守った。
富士からすれば「かわいい姪っ子ができた」といったところだろう。

そんな仏様のような富士だったが、ひとつだけ生身の猫だなぁと思わせるところがあった。それは母にだっこをしてもらうことだ。夜、母の家事が終わりソファに落ち着くと、富士がどこからともなくやってきてびょんっと膝にのるのだった。でかいし重いしで 10分もすると足がしびれてしまい、母に降ろされてしまうのだが、少したってまた目が合うと、びょんっ。
大きな猫が母の膝に乗って、母のおなかを猫もみ・・・。またその猫もみが痛くて下に降ろされてしまうのだが、大きな富士が「だっこ〜」と甘える姿は、なんともおかしくて、かわいかった。家族に「マザコンおやじぃ〜」とからかわれても、それはやめることの出来ない、富士の日課だった。

叔父さんでありおやじぃ〜な猫の幸せな生活は、11歳になるまで続いた。

《《 初めての入院 》》
月日が経って、私も姉も独立・結婚し、次々に実家を出ていった。が、月に 1〜2度実家に遊びに来るたびに、富士は玄関で「ナー」と、あたたかく迎えてくれた。
実家に帰れば富士がいる。それが当たり前で、いつもいつまでも富士がいるような気がしていた。

しかし、でかいけど富士は猫だ。冷静に考えれば自分より先に逝ってしまうことくらいはわかる。でも、こんないい猫なら、きっと 20歳の誕生日を過ぎた頃に老化してきて、徐々に年をとりながら、最期は老衰でポクッと眠るように亡くなり天に召されるのだろう・・・と、猫の病気のことも調べず、血液検査もせずに勝手に思っていたのだ。

富士の様子が変わってきたのは、今年 2004年の始め、富士11歳半の頃だった。
やせてきたのだ。動物病院では「猫も年をとれば、自然とやせるものです」と言われ、「人間でもそうだし」と、うのみにしていた。が、気がつくと、お行儀の姿勢をとったときに肩胛骨が見てわかるほどやせていた。母は「一応病院に行っとこうかしら」と、何度か言っていたものの、富士が元気なのでついあとまわしになっていた。

2004年4月始め、富士は毎日のように吐くようになった。食後に食べた物を全部吐いてしまう。だが、すぐにお腹がすいてまた食べる。食欲はあるようだがあまり「ダッコ〜」に来ない。元気がなく、こたつにこもる。
風邪かしら?元気ないから、病院行ってみようか?

4月11日、今まで通い続けた近所の病院にはレントゲンなどの施設がそろっていなかった為、車で20分かかる大きな動物病院に行って血液検査をしたところ、びっくりすることに即入院になってしまった。

私たち家族は猫の病気に対して無知だった。気付いた時には富士の左の腎臓は萎縮し 100%ダメになっていたうえに、右の腎臓も左の分をカバーしようとフル活動するため肥大し、充分に機能できていない。体重は6キロ弱まで落ちていた。BUN140、Cre22.0。この数字のすごさもまだこの時点ではわからない。
「この状態でちゃんと立っていられることが不思議です」と先生に言われたが、まだわからない。それよりも、今までずっと家で暮らしてきた富士が、一人で入院しなければならないことがかわいそうで涙が止まらなかった。

翌日、あまり仕事が手につかず、昼休みはひたすらネットで“猫の腎不全”のページを見ていた。クレアチニンとは・・・蛋白の老廃物、フムフム。筋肉中で使われた物質が血液中に放出されたもので、正常値は 0.8〜2.0・・・。
そこで初めて富士のCreの数字の異常さに気付く。

あわてて闘病中の猫ページを見るが、どこをを見ても、Cre 22.0なんて数字はない。かなり悪い子でも1ケタだ。先生は1ケタ書き間違えたんじゃないか?
猫の腎不全を知れば知るほど絶望的になってくる。職場にもかかわらず、号泣&鼻ずるずるで、まっしろなあたまにムリヤリ腎不全の知識を詰め込む。
とはいえ、ずぶの素人だ。
「病気の時は免疫力が落ちているから清潔に」「猫は絶食すると 3日で肝臓がフォアグラになるから、なんでもいいから口から食べさせろ」・・・・・などなど、自分でもできそうなことから少しづつ覚えて実行に移していった。

富士が入院している間の私は、さぞかし変な人だっただろう。
幸いにも、私の家・実家・病院・職場はすべて径半 8キロの円の中におさまる位置にあった上に、昼12時から夜8時まではいつでも面会できると聞いて、私はやたらとせわしなく走りまわった。
仕事の昼休みはチャイムと同時に走り出し、原付をすっ飛ばして病院へ直行。往復 40分かかったため面会できる時間はたったの20分であったが毎日のように病院に通った。

仕事が終わったらまた面会に行くため、昼病院に行った帰りに夕飯の買い物も済ましてしまう。会社の冷蔵庫には職場の女性陣が3時に食べようと、かわいいプリンやヨーグルトを入れていたが、私はそこに長ネギや魚の切り身を入れていた。
昼休みに昼食がとれないため、仕事中にカロリーメイトをむさぼり食う。
私はとにかく富士に会いたかったのだ。
富士はこの 11年間ずっと家猫で育ってきて、外出も年に一度の注射の時だけ、その上お泊まりなんて想像もしていなかっただろう。

なんか具合が悪くなった・・・お外に出た・・・と思ったらおいて行かれた・・・なぜか檻の中だし・・・クビのカラーは邪魔だし・・・知らない猫さんの声はいっぱい聞こえてくる・・・知らない人に体を触られる・・・これからどうなっちゃうの?・・・僕、捨てられちゃったの?・・・頭がおかしくなりそうだよ・・・これがいつまで続くの?・・・怖いよ・・・たすけて・・・

普段はおじさんらしくしているが、根は甘えんぼうの富士だ。きっとこんなことをぐるぐる考えて途方に暮れているに違いない。
人の目なんて、どうでもよかった。
夕方の面会は母と二人で毎日通った。毎回、山のような荷物を持って。

段ボールで作った簡易トイレ、いつもの猫砂、ちょっとスープっぽいご飯、実家の水道水をつめたペットボトル、カラーでも食べやすいよう上げ底の皿、マッサージミトン、など。
富士の血液検査のひどさが普通でないことが分かった私と母には、この荷物がことさら重く、 3階の病室までの階段が長く感じた。

往復の車の中は油断するとお通夜のようになってしまうため、私たちは必死に言葉を探した。「これからはこうしたらいいらしいよ」「明日はこれを持っていこう」と。
2人でいるときはまだいい。問題はそれぞれ1人になったときだ。
母も私も疲れきっていた。家に帰ればどんよりと座り込み、風呂に入っては泣き、夜中に目が覚めては泣き、Creが 22.0の猫の命はあとどれくらいなのだろうと考えては、また泣くのだ。

しかし入院 5日目、血液検査の結果を1階待合室で聞いた私たちは飛び上がった。先生方もびっくりするほど富士は回復していたのだ。なんとCreは2.3、それ以外で標準値を超えていた4項目は全部標準内におさまった。
今までの疲れが一気に吹き飛んだ私たちは、猫砂の袋をブンブン振り回しながらスキップで階段を駆け上がった。

こうして富士初めてのお泊まり、 6泊7日の入院生活が終わった。4月17日だった。

《《 腎不全猫の生活 》》
腎不全猫はなにが大変って、それは食事とみんなは言うが、富士の場合はまったく当てはまらなかった。

まず、退院するときに担当のS先生の言ったことは「最初は普通食をあげてください。自宅で元気が出てきたらロープロテイン食をあげてみて、慣れればそっちに切り替えましょう。ホントはすぐにでもロープロテイン食にしたいところだけど、食事が嫌いなことになってしまうのを避けるため、まずはいつもの大好きなものをあげてくださいね。」だった。

その作戦が功を奏したのか、富士は食欲を取り戻した。
私は出来るだけ塩分の少ない猫缶を探してきては富士にあげてみたが、どれもこれもよく食べた。クレメジンをまぜてもよく食べた。
しばらくしてから病院にロープロテインのカリカリのサンプルを頂き、富士のお皿に出してみたら、これまたよく食べた。
三毛猫桜華は見向きもしなかったが、富士は実に聞き分けが良く、人間がよかれと与えた物は素直に食べてくれた。腎不全になると口内炎を併発するコもいるそうだが、富士の口は最期までピンク色できれいなままだったので、それも良かったのだろう。

富士は家に帰って来れたことがうれしかったようだ。
毎日ゴロゴロと母に甘え、リラックスして過ごした。日々グルーミングにいそしみ、猫草の新芽を食べては吐かずに消化してビタミンをとった。
私は富士の胃に毛玉がたまらないよう、毎日ブラッシングをした。父の背広のほこりをとるエチケットブラシでなでると、富士はゴロゴロと喉を鳴らした。5分ほどブラッシングをして左側の毛がとれたら、富士は自らゴロンと寝返りをうって「次は右側ね」と催促した。

腎不全猫との闘病生活は苦しいものではない。富士がご飯をたくさん食べるだけでうれしい。富士がトイレから出てきたら、スコップ片手にお宝探しだ。立派なうん○と大きなおしっこ玉を見つけては、喜んで掘り掘り。富士のゲーの中から毛玉を見つけたら不調のせいではないと一安心。
もちろん体重が減ったり毛玉のないゲーをしたりして落ち込むことはあるが、その分元気な日は喜びも倍。富士がこの家にいることがうれしかった。

皮下輸液の通院は 2日に1回、血液検査は週に1回行った。
毎度毎度、おしりにぷすっと体温計を挿され、体を触られ、口の中をのぞかれ、背中に輸液のこぶを作って帰ってきた。富士はあきらめておとなしくしていたが、帰りはキャリーバッグに自分からすごすごと入っていったから、やっぱり嫌だったんだろうな。

やはり点滴の威力はすごいらしく、皮下輸液だけではCre・BUNの値は標準値を超えてしまったが、ぐんと悪くなるということもなかった。
なんか、このままあと 10年くらい行けそう。そろそろ自宅で皮下輸液する練習でもお願いしようかな・・・と考えていた矢先に、再び富士は体調を崩した。

《《 2度目の入院 》》
5月15日、土曜日の早朝6:30、父からメールがきた。

「フジ具合悪し/フジは昨晩はずっと朝まで吐きっぱなし。食欲なし。おととい以降排尿なし。元気なし。今日は病院に行く必要あり。 11:00からM(姉の子供)の歯医者があるのですが、それより十分早くか、午後に行きたいと思っています。」

その後 6:50、母からメール。母は数日前から出張に出ており、その日は家にいる父と連絡をとった後私にメールをくれた。
「富士調子悪い/昨日病院から帰ってから富士の調子が悪く、吐きっぱなしらしい。元気もなくおしっこもでないらしい。早く病院へ行ってほしいのでお願いいたします。」

すぐに支度をして、原付をとばして実家に向かった。
むりやりダッコしてトイレに運ぶと、富士はいつもより一回り小さいおしっこ玉をつくった。病院に行き、診察・血液検査をしてもらったところ、Cre 6.0、BUN91.0。ここ1ヶ月安定していた数値がグイッと上がってしまった。

S先生は「千代ちゃん(先生は富士をこう呼んだ)は、皮下輸液だけじゃダメかもしれないですね。普段は皮下輸液で、たまに静脈点滴もしないといけないかも。まずはお預かりします。最短 3日の入院です。」と言って、富士を連れて行った。

またまた入院になってしまった。
いろいろ思いかえしてみたが、何が悪かったのか分からなかった。昨日の夕方までは元気で食欲もあった。その後、父と二人で富士を病院に連れていったときも、先生に何も言われなかった。なんでだ?ぐるぐるぐる・・・
何度ぐるぐると考えをめぐらしても、結論は出なそうだったので、やめた。

前回入院したときも、富士は元気になって帰ってきたんだ。今回だって!と、自分に言い聞かせるようにキビキビと振る舞った。母に報告メールをし、ごっそり買い物をし、家に帰り、今後のお見舞い生活にそなえて土日分の家事をした。

夕方 6:00に、父と二人で面会に行った。
富士は3階の大部屋で、前回の入院と同じ場所にいた。目があうと「あ〜、な〜」と鳴いた。やっぱり病院は落ち着かないよね、他の猫さんの声も聞こえるしね。ごめんね富士・・・。でも今は静脈点滴をしないといけないんだよ、我慢してね・・・。

5月16日、日曜日、12:00きっかりに面会にかけつける。今朝7:00頃、ほんの10秒くらいひきつけのようなのをおこしたとのこと。心配なので、3階の大部屋から1階に移動されていた。広さはさして変わらないが、1階の方が先生方の目が届くからだ。

ひきつけをおこしたときに吐いたらしく、口から胸にかけて黄色い液体で汚れてしまっている。血液検査の結果は昨日より悪く、Cre 9.3、BUN119とのこと。
静脈点滴をしているのに悪化してるなんて・・・。
全然元気なし。食欲なし。かわいそうで涙が出てくる。

夕方 4:00、父と二人で面会に行った。こんなに頻繁に来て病院も迷惑だろうが、あまり気にはしないことにした。
朝以来、ゲーもひきつけもないとのこと。でもやっぱり元気はない。食欲もない。エリザベスを外してもらい、お湯タオルで富士ののどをふく。富士は私と目を合わさない。本当に具合が悪いのだろう。たまにお腹がひくっとするのを見ていると気が気じゃない。少しでも富士が安心するように、父と母の靴下、私のタオルもケージに入れた。

夜 8:00、予定を変更して早く帰ってきた母を駅でひろって病院へ直行すると、富士はまた胃液を大量に吐いていた。点滴のお薬が効いていないのか?
猫は全身毛だらけなので、顔色がわからない。きっとかなり具合が悪いのだろう。でも、母の顔を見たとたん、かすれた声で「ヒァーーー」と鳴いた。

母に会えたのがうれしかったのか、ブスッとしていた目がキョトン目になった。そして、一度立ち上がり、今度は左を下にして横になった。よかった、ずっと同じ体勢だと床ずれが心配だからね。
母にのどをふいてもらうと、富士は眠そうな顔になった。

5月17日、月曜日、朝10:00過ぎに母からメール。

「痙攣発作を起こしてかなり末期の状態。みなさんで来て下さいとのこと。悪いけどなるべく早く富士のところへ行ってほしいです」
父も母も職場は都内なので、急いで帰っても1時間はかかる。私は 9:00に来たばかりの会社を10:00に早退して、病院に向けて原付をとばした。もしかして、もしかして、と思いながら富士に会いにいったが、富士はまだ頑張っていてくれた。えらいぞ富士、ありがとう!

血液検査の結果はCre 9.6、BUN124.8。昨日よりさらに悪化している。もう点滴も効かないようだ。痙攣発作は9:45に10秒くらいと、10:00ジャストに15秒くらい。すぐに鎮静剤を打って落ち着くが、富士は意識もうろうでぐったりしていた。
S先生「さっきの発作の時に、一瞬呼吸が止まってしまい、舌の色が白くなってしまったので、ケージに酸素を入れてます。」
見ると、ケージの横に石油ファンヒーターほどの大きさの機械が置かれ、そこからのびた透明のチューブが富士のケージにさしてある。

12:00ちょっと前に父と母が到着、S先生の話を聞く。
「多分、今日を含めて 3〜4日が山だと思います。点滴をしても良くなってこないので、もう腎臓が限界なのかもしれません。もちろん、病院では24時間見守りながらお預かり出来ますが、自宅で点滴をしながら過ごすのも一つの選択です。その場合はケージ、点滴の装置、注射器などをお貸しできますし、酸素導入の機械もレンタルできます」

富士に残された時間は少ない。もしもの時のことを考えると怖い。ど素人の私たちには何が出来るだろう。
でも、みんな考えてることは同じだった。家に帰ろう。
1度目のうれしい退院とは対照的に、2度目の退院は覚悟の退院だった。

車の後ろにケージごと富士を乗せ、超低速で運転していると、あることに気がついた。
いつもは車の通りが絶えない大通りを運転しているのに、前も後ろもガラ空きだ。こんなことってあったっけ?まるで富士が揺れないよう、ゆっくり通るために、交通が規制されてるかのようだった。

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